和歌山市のあゆみ
神話のさと 古代
日本の古代国家の誕生を語り継ぐ記紀神話の中に、和歌山の地名がたくさん見えます。天の岩戸神話で天照大神を導き出すために作られた神鏡が祀られているという日前宮、神武東征神話で天皇の兄神彦五瀬命(ひこいつせのみこと)が雄叫びをあげて死んだ湊といわれる雄ノ湊、その兄神を葬ったと伝えられる竃山(かまやま)、そして神功皇后が朝鮮半島への遠征に出発した土地といわれている徳勒津(ところつ)宮などがあります。
これらの神話は史実ではなく虚構のお話です。しかし、その作り話の舞台として和歌山の土地が選ばれたのです。
その背景には、大和盆地に発生した古代の政権が、全国を統一し、海外にまで出兵する過程で、大量の兵員・物資を輸送する際に、大和盆地の南に水源を発する紀ノ川の水運を利用したからでしょう。古代の和歌山は、国家規模で見ても世界への窓口だったのです。
雑賀衆活躍の舞台 中世
中世の和歌山は、司馬遼太郎さんの小説「しりくらえ孫市」で有名な「雑賀孫市」のふるさとです。孫市は、正確には雑賀(さいか)出身の鈴木孫一です。小説では雑賀崎にその居城があったことになっていますが、城下町が開かれる以前の現在の市街地が、雑賀と呼ばれていました。ですから、孫一は、現在の和歌山市の中心に住んでいたのかも知れません。
ところで、和歌山には武田信玄や上杉謙信のような強大な戦国大名がいませんでした。このため、この地にいた有力な農民たちは、強力な支配を受けることなく、比較的自由に暮らしていました。戦国時代にこの地を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、この地の人々を「富裕な農夫」と呼んでいました。彼らの自由は信仰においても貫かれていました。全国制覇をもくろむ織田信長に対抗した本願寺教団は、勅命講和後に石山(現大阪市)を退去しますが、その教団を鷺森(さぎのもり・和歌山市内)に暖かく迎え入れたのは、中世の自由な人々の住むこの雑賀の地でした。
御三家の城下町 近世
自由な雑賀の人々も天正13年(1585)に全国制覇を目指す豊臣秀吉に征服されます。秀吉は、この地を支配するために和歌山城を築きます。関ケ原合戦後浅野家が紀州に入国し、豊臣家滅亡後の元和5年(1619)には、徳川家康の第10子徳川頼宣が55万5千石を領して和歌山城に入ります。以後、和歌山の町は、江戸幕府御三家の紀州徳川家の城下町として栄えます。
町は、城を中心に広がり、かつて雑賀と呼ばれた地には、新しい町名が付けられました。街には「大水道」と呼ばれる下水道設備が完備しており、紀州徳川家55万5千石の富みが集積されていました。江戸後期には約9万人の人口を擁する全国8位の近世都市でした。
この街からは、文人画の祖・祇園南海、国学の泰斗本居宣長をはじめとする近世文化をリードした多くの文化人も輩出しました。
南海の鎮 近世
紀州徳川家伝来の「南海之鎮」と刻まれた金の印がわかやま歴史館に収蔵されています。これは紀州徳川家から和歌山市に寄贈された貴重な資料です。言い伝えでは、紀州徳川家藩祖頼宣が駿河国(静岡県)から紀州に封ぜられた時、都の南を鎮める役目を負わされたことを大変誇りに思って、この印を造ったのだと言われています。しかし、この印を捺した資料などを詳細に調べると、第10代藩主徳川治宝(はるとみ)が造った印であることがわかりました。
ところで、和歌山市立博物館には、第13代藩主で後に第14代将軍家茂(いえもち)になった慶福(よしとみ)の書があります。その書には「大瀛濱我南封畿接我北」という印文の落款が捺されています。大変むつかしい言葉ですが、「大瀛」とは大きな海のことです。ですから、私の領土は大きな海が南にあって、天皇のおられる畿内が北に接している、という意味になります。都の南に位置し、黒潮洗う紀伊半島の風土を的確に表現した言葉といえるでしょう。「南海の鎮」という言葉は、第10代藩主の言葉でしたが、近世紀州の人々が一貫して「南海の鎮」という責務を誇りに思っていたということができるでしょう。
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