和歌山市名誉市民

 

ページ番号1010305  更新日 令和3年6月15日 印刷 

和歌山市では、社会の進歩、文化の興隆に功績のあった市民または市に縁故の深い者で、郷土の誇りとなるものに対し、和歌山市名誉市民の称号を贈ってその栄誉を表彰しています。

松下 幸之助(まつした こうのすけ)

明治27年(1894年) ~ 平成元年(1989年)

写真:松下幸之助・肖像

明治27年(1894年)11月和歌山県名草郡和佐村千旦ノ木(現在の和歌山市禰宜)に生まれる。

大正7年(1918年)3月家庭用電気器具の製作普及を目的として松下電気器具製作所を創設し、最初にアタッチメントプラグ(電気器具)を製作、続いて自転車用ランプ、電気アイロン、乾電池等の家庭生活を向上させる画期的な製品を作り出す。

昭和10年(1935年)12月に株式会社組織に改組し松下電器産業株式会社(現:パナソニック株式会社)を設立、取締役社長に就任。同11年には電球の製造に着手するほか、その後も次々と新しい家庭電化製品を世の中に送り出し、家庭電器及び無線電機の製作普及に努める。

また、電気事業界のみならず、電気協会海外貿易促進委員会委員として海外貿易にも積極的な活動を行ったが、我が国電子工業界の立遅れを痛感し同工業の基礎である電子管に着目、昭和27年世界一流メーカーたるオランダのフィリップス会社と技術提携を行う。同33年6月この経済提携により日本・オランダの両国親善に尽くした功績に対し、オランダから経済提携親善功績章(コマンダー・インザ・オーダー・オブ・オレンジ・ナッソ)を授与される。

松下幸之助の真の偉大さは、優れた事業家であることのみにとどまらず、教育、文化、体育、社会福祉等あらゆる方面の発展向上に尽力されたことである。

なお、氏の功績に対し昭和13年に紺綬褒章、同31年に藍綬褒章、40年に勲二等旭日重光章、さらに56年には勲一等旭日大綬章を授与される。

平成元年(1989年)4月27日に逝去され、生前の功績により正三位に叙せられた。

昭和35年:和歌山市名誉市民
平成15年:偉人顕彰

古武 彌四郎(こたけ やしろう)

明治12年(1879年) ~ 昭和43年(1968年)

写真:古武弥四郎・肖像

明治35年(1902年)大阪医学校卒業後、京都帝国大学医科大学助手となり、同38年大阪府立高等学校に転じる。その後ドイツに派遣され、エーニッシスベル大学において生化学の研究に従事、大正2年(1913年)医学博士の学位を授与される。大正8年大阪医科大学教授、昭和6年(1931年)大阪帝国大学教授となる。

学術上の研究業績は極めて輝かしいものがあり、発表された論文は広く内外に引用され、我が国における学術振興及び世界の学会に寄与するところ大なるものがあった。その主なものは、トリプトファンの中間代謝物であるキヌレニンの発見及びその体内運命の研究であり、その功績により昭和7年ドイツのハーレー市カイゼルレオボルト学士院会員に推挙され、翌8年には日本帝国学士院賞を授与される。同9年大阪帝国大学微生物研究所長、12年同大学医学部長に補せられる。

昭和20年に本県に医学専門学校が創設されるに当たり、その初代校長として迎えられるが、附属病院は戦災により焼失する。このため、旧高島屋和歌山分店を病院として使用。罹災者の医療救護に貢献するとともに戦後の苦しい財政的な制約を受けながら大学及び病院の整備・拡充に没頭し、市民の保健、医療のため名実ともに立派な病院を再建する。

一方、学部についても基礎医学教室を創設し、また、就任以来の念願であった大学院設置の認可を得るに至る。この功績を称え、昭和35年に和歌山県立医科大学名誉教授の称号を贈られる。昭和43年5月30日に逝去され、生前の功績により正三位に叙せられた。

昭和35年:和歌山市名誉市民
平成15年:偉人顕彰

川端 龍子(かわばた りゅうし)

明冶18年(1885年) ~ 昭和41年(1966年)

写真:川端龍子・肖像

明治18年(1885年)和歌山市本町三丁目に生まれる。本名は昇太郎。同28年一家で上京し浅草、日本橋に住む。37年東京府立第三中学校在学中に、読売新聞社が募集した「明治30年画史」に入選する。同年、中学校を中退して白馬会洋画研究所や太平洋画会研究所で油絵の技法を学ぶ。まもなく国民新聞社に入社し挿絵を担当、同社には先輩に平福百穂氏がいて感化を受ける。

明治40年の文部省美術展覧会第1回展及び翌第2回展で出品作品が連続して入選する。

大正2年(1913年)洋画研究のためアメリカ各地を巡歴、ボストン美術館で東洋美術の美しさに心を打たれ、帰国後は日本画に転じる。同3年には、大正博覧会において「観光客」で入選する。この作品こそ本格的に日本画に転向した最初のものであり、以後の画業生活に太い一線を画すものであった。

大正5年日本美術院第3回展に「霊泉由来」で樗牛賞を受け院友となり、翌6年第4回展では「神戦の巻」が入選し日本美術院同人に推され、日本画家としての地位を確立する。

昭和3年(1928年)日本美術院同人を脱退し、翌4年青龍社を創立。その青龍社第1回展には「鳴門」を出品、第2回展の「魚紋」は朝日賞を受け、第3回展では“展覧会における作品は、個人的所有物としての床の間芸術と区別されるべきである。”という会場芸術に対する考えを主張する。

昭和28年青龍社創立25周年に出した「風神雷神」と70歳の古希を記念する「小鍛冶」は、戦後の芸術の中で最も印象的なものである。

昭和34年文化勲章を受章、同38年龍子記念館を開設。昭和41年4月に81歳で逝去された。

昭和41年:和歌山市名誉市民
平成15年:偉人顕彰

高垣 善一(たかがき ぜんいち)

明治31年(1898年) ~ 昭和41年(1966年)

写真:高垣善一・肖像

昭和8年(1933年)和歌山市議会議員に当選、同13年副議長、17年議長、22年4月初代公選市長に選ばれる。当時は、戦災に続く敗戦の直後であり戦火の傷跡が生々しく、食料の欠乏と思想の混迷で社会秩序が定まっておらず、加えて占領治下であった。また、主要産業が壊滅に瀕し市財政に多大な影響を及ぼしている中での戦災復興であった。

昭和26年4月再選、戦災復興の中期であり、商工行政の積極化と民生安定のための施策を推進する。まず、上水道の回復と工業用水の開発、中央市場の開設、水産研究所の発足、中小企業金融相談所の設置等を、一方では、山東学園、母子寮、隣保館等の福祉厚生施設の建設を行う。

昭和30年4月3選、戦災復興がほぼ目標を達したのもこの期である。すなわち、市政発展の動脈である道路行政に全力を傾注するとともに中小企業に対する融資制度を確立する。さらに和歌山市の発展の母体としての周辺14箇町村の大合併を断行する。また、市政70周年を記念する和歌山城の復元は戦災復興に終止符を打つものとして、市民の精神生活の糧として、市発展の希望塔として意義深いものであった。

昭和34年4選、文化・厚生施設の充実を目指して児童婦人会館、青年の家、岡崎清掃工場等の建設を行い、地方自治の将来を予見し他に先駆けて海南市、有田市、下津町の2市1町に呼びかけ広域行政都市提携を推進する。

昭和38年4月5選、周辺合併地域を含む総合的開発に着手し、河西地域に上水道を送水、保健所の新設、東和歌山民衆駅の建設と東部地域の開発、中小企業団地の造成を行い、地方近代化都市の実現を期待されたが、昭和41年5月急逝され、生前の功績により正五位勲三等に叙せられた。

昭和41年:和歌山市名誉市民
平成15年:偉人顕彰

宇治田 省三(うじた しょうぞう)

大正6年(1917年) ~ 平成元年(1989年)

写真:宇治田省三・肖像

和歌山市議会議員、和歌山県議会議員を歴任し、昭和41年(1966年)市長に就任、以来5期20年に渡り市政に対するひたむきな情熱と卓越した手腕、高邁な信念をもって市勢躍進のために心血を注ぐ。

都市環境の整備では、加納浄水場、六十谷水管橋等を完成させ上水道の安定供給はもとより渇水期にも十分に対応できる水道体制を確立し、下水道では公共下水道事業を実施、一部供用開始するまでにこぎつける。し尿処理については、完全陸上処理のできる青岸工場を完成させる。また、廃棄物の増加に対処するため、余熱利用として発電設備、粗大ごみ処理施設を持つ青岸エネルギー工場を完成させ、人口50万人の家庭から排出されるごみをも処理できることとなる。国鉄和歌山駅の完成と相まって駅前広場の拡張、商店街の整備、連絡地下道の建設をするとともに土地区画整理事業に着手し東部副都心づくりを急ぐ。核家族化に伴い、岡崎、菖蒲ヶ丘、向、紀和駅団地等の市営住宅を次々と建設し住宅難の解消に努める。

都市化の進行につれて失われがちな市民の連帯感や郷土愛を育成するため、市民総参加による運動として町を美しくする運動、火災をなくする運動、愛の一声運動、緑と花いっぱい運動、紀州おどり「ぶんだら節」等を行い大きな成果を上げる。

教育環境の整備では、幼稚園、小中高等学校を増改築し、全校にプールを設置する。また、松下、市民、河南体育館、市民スポーツ広場等を建設しスポーツの普及振興を図り、市民会館、図書館、博物館、こども科学館、発明館も建設し一大文化ゾーンを完成させるなど市民の理解と協力の下、計画的行政を推進し、近代都市和歌山の基盤を築いた。平成元年(1989年)6月に逝去され、生前の功績により従四位に叙せられた。

昭和61年:和歌山市名誉市民
平成15年:偉人顕彰

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名誉市民

和歌山市市長公室 企画政策部 秘書課
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Eメール:hisho@city.wakayama.lg.jp

偉人顕彰

和歌山市産業交流局 文化スポーツ部 文化振興課
電話:073-435-1194
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