和歌山市の偉人・先人

 

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「和歌山市の偉人・先人」顕彰事業は、和歌山市出身者又は和歌山市にゆかりの深い者のうち、近代史及び現代史上、教育、学術、芸術、スポーツ、産業その他の分野において文化の発展に貢献し、和歌山市の名を高めるうえで顕著な功績があった個人を顕彰するとともに、その功績を紹介することにより、市民のふるさと意識の高揚に資することを目的としています。
平成15年度に「偉人顕彰」の名称で始まり、平成19年度に「偉人・先人顕彰」と名称を改めました。

陸奥 宗光(むつ むねみつ)

天保15年(1844年) ~ 明治30年(1897年)

写真:陸奥宗光・肖像

陸奥宗光は、天保15年(1844年)に紀州藩重臣伊達千広の第6子として現和歌山市吹上三丁目に生まれる。文久2年(1862年)に紀州藩を脱藩し、翌年勝海舟の主宰する海軍塾に入り坂本龍馬と知己を得る。その後、龍馬と行動を共にし討幕運動に奔走する。

明治11年(1878年)には立志社陰謀事件に連座して収監されるが、同16年出獄して外遊後、外交官として活躍する。同21年にはワシントン在勤を命じられ、全権として日墨修好通商条約の調印に成功する。この日墨修好通商条約は、宗光とロメロ駐米メキシコ公使との間で協議された条約で、近代日本国家が諸外国と締結した最初の平等条約であった。すなわち、この条約が日本の国際社会における平等外交の始まりであると評することができる。

明治23年の第1回総選挙で和歌山第一区から出馬して当選、第二次伊藤博文内閣では外務大臣として不平等条約の改正に尽力し、同27年ロンドンで日英通商航海条約を調印する。これによって、治外法権撤廃と関税自主権の一部回復に成功する。

さらに翌年、下関で日清戦争講和条約調印全権団として臨み、日本で最初の対外戦争の戦後処理を行う。この調印直後、体調を崩し、以後大磯の別荘で療養生活を送る。宗光は、藩閥政府と揶揄される政府内にあって、紀州藩出身の官僚として不動の地位と多大な業績を残した。

明治30年8月24日死去。浅草海禅寺で葬儀が行われ、同年11月、大阪夕陽丘に葬られる。

その業績を称え、現在、外務省敷地内、和歌山市岡公園に陸奥宗光の全身像が建てられている。

平成15年:偉人顕彰

南方 熊楠(みなかた くまぐす)

慶応3年(1867年) ~ 昭和16年(1941年)

写真:南方熊楠・肖像
〔写真:南方熊楠記念館 所蔵〕

南方熊楠は、慶応3年(1867年)4月15日に和歌山城下橋丁で、金物商弥兵衛の次男として生まれる。雄小学(現:和歌山市立雄湊小学校)、和歌山中学校(現:和歌山県立桐蔭高等学校)を経て明治16年(1883年)に上京し、共立学校を経て大学予備門(現:東京大学)に入学する。同校退学後の同20年正月に渡米し、シカゴの地衣類学者カルキンスに師事して標本作成を学ぶ。

その後、キューバを経てイギリスに渡り、大英博物館にて独学で研究を続ける。この間、科学誌『Nature』に寄稿、明治33年に帰国後も研究を継続し、日本人で一番多くの論文が採用されている。熊楠は、粘菌の研究だけでなく、民俗・文学・歴史等の分野にも多くの論文を発表した。熊楠の学問領域は、それまでの枠を大きく打破したが、その広範な学識のため博物学者と評されている。

帰国後しばらくして、田辺に居を構え植物の採集に熱中するが、同39年に明治政府がうち出した神社合祀政策による神社林、いわゆる「鎮守の森」の伐採で、植物が絶滅することやそれにより生態系が壊れることを憂い、環境保護運動ともいえる神社合祀反対運動に精力を傾注する。その後も理想とする環境の在り方を訴えつつ、生涯市井の大学者として研究生活を送った。

熊楠は、官尊民卑の戦前において生涯を民間人として過ごしたが、その学識は無視しがたく、昭和4年(1929年)の昭和天皇和歌山県行幸に際しては、求められて進講を果たした。同16年、75歳で亡くなり、田辺の高山寺に埋葬された。

和歌山市は、橋丁の生誕地に南方熊楠の胸像を建てている。

平成15年:偉人顕彰

國部 ヤスヱ(くにべ やすえ)

明治23年(1890年) ~ 昭和54年(1979年)

写真:國部ヤスヱ・肖像

國部ヤスヱは、明治23年(1890年)那賀郡北野上村(現:海南市)に國部芳松の長女として生まれるが、同37年に和歌山市に移り住む。44 年に日本赤十字和歌山病院看護婦養成所に入学し、大正3年(1914年)に卒業後同病院看護婦となる。同5年助産婦資格を取得し、8年には看護副長、10年には婦長心得、11年看護婦長に昇任する。

同病院が陸軍病院となって間もない昭和14年(1939年)看護婦監督に就任し、戦時体制下、看護部門の責任者として看護管理と救護看護婦の養成に尽力した。特に、同20年7月9日の和歌山大空襲に際しては、同病院が全焼する被害を受けながらも1200人近い患者・職員を無事避難させ、その指導力は高く評価されている。

昭和26年、戦中・戦後を通じての献身的な看護活動が評価され、国際赤十字委員会からフローレンス・ナイチンゲール記章を受章し、看護師最高の栄誉に輝く。その後、同30年に黄綬褒章、40年に勲五等瑞宝章を受ける。41年に同病院を退職後も、2年余りに渡り無給嘱託として後進の指導にあたったが、54年10月に89歳で死去する。その際従六位が追贈されている。

フローレンス・ナイチンゲール記章は、1853年に勃発した英露間の国際紛争であるクリミア戦争に、ナイチンゲールが看護団を組織して従軍し彼我の別なく負傷者を看護した博愛精神を称え、1920年に制定された記章である。第1回受章から平成24年まで103人の日本人看護師が受章しており、國部ヤスヱは第13回の受章者で、和歌山県民・市民としては初めての受章である。

平成15年:偉人顕彰

嶋 清一(しま せいいち)

大正9年(1920年) ~ 昭和20年(1945年)

写真:嶋清一・肖像
〔写真:松本五十雄氏 所蔵〕

嶋清一は、大正9年(1920年)に和歌山市小野町の米穀商嶋権次郎の長男として生まれる。昭和10年(1935年)和歌山県立海草中学校(現:和歌山県立向陽高等学校)に入学し、野球部正選手に抜擢される。同12年の第23回全国中等学校優勝野球大会(夏の大会)では、初めて投手として登板し準決勝まで勝ち進む。

翌年の第24回大会では初戦敗退するが、同14年の第25回大会では、一回戦から決勝戦までの全試合(5試合)を57奪三振という記録で完封勝利して全国優勝を飾った。全試合完封勝利は大会史上初の快挙であるばかりか、その準決勝・決勝の2試合ではノーヒットノーランを達成している。なお、嶋はこの大会で打者としても活躍し、5割を超える打率を残している。

昭和15年に明治大学に進学し東京六大学リーグで活躍するが、18年に学徒動員によって海軍予備学生として出征している。その後、同20年3月インドシナ半島沖の海戦で戦死。弱冠25歳であった。

和歌山県は、全国高等学校野球選手権大会史上優勝回数は7回であり、全国3位の優勝回数を誇る野球王国である。その7回のうち6回が、和歌山市内の高等学校(中等学校)である。すなわち、和歌山市のアマチュア野球選手たちが、野球王国和歌山県を牽引してきたと評しても過言ではない。

その中にあって、嶋選手の偉業は今も和歌山市民の心に金字塔として残っている。それだけに、彼が戦争の犠牲になったことは慙愧に堪えない感がある。アマチュアスポーツは、平和な社会においてのみ成り立つものであるということを再認識する思いである。

平成20年(2008年)に野球殿堂入りを果たした。

平成15年:偉人顕彰

有吉 佐和子(ありよし さわこ)

昭和6年(1931年) ~ 昭和59年(1984年)

写真:有吉佐和子・肖像

有吉佐和子は、昭和6年(1931年)正月20日、和歌山市真砂丁(現:吹上一丁目)に有吉眞次の長女として生まれる。横浜正金銀行員の父の転勤に伴い、ジャカルタで日本人小学校に入学。同14年夏に一時帰国して木本村立木本小学校(現:和歌山市立木本小学校)に通学するが、一年足らずでスラバヤ日本人学校に転出する。

敗戦直前に帰国し東京で過ごすが、昭和20年の東京大空襲後、静岡を経て和歌山に疎開し、二学期から和歌山県立和歌山高等女学校に転入する。

翌年末上京し、昭和24年東京女子大学文学部に入学。同26年に同大学短期大学部に移り、歌舞伎研究会に所属する。この頃から演劇を通じて文筆活動を開始し、31年に『地唄』が芥川賞候補になる。

その後、昭和34年に『紀ノ川』、37年に『助左衛門四代記』、38年に『有田川』、40年に『日高川』、41年に『華岡青洲の妻』と、ふるさと和歌山を題材とした小説を発表する。紀州人らしい人々が、たおやかな紀州弁を話すこれらの物語は、戦後小説において新しい価値観を与えたものとして評価されている。

さらに、後年の47年『恍惚の人』、50年『複合汚染』等の作品は、高度経済成長下の弱者に焦点を当てた社会派作品として高評を得ている。

小説だけでなく、ルポルタージュや演劇の脚本・演出等幅広い活動を続け、いずれの分野においても高い評価を受けたが、昭和59年に53歳の若さで急性心不全のため不帰の人となった。

平成15年:偉人顕彰

山葉 寅楠(やまは とらくす)

嘉永4年(1851年) ~ 大正5年(1916年)

写真:山葉寅楠・肖像

山葉寅楠は、嘉永4年(1851年)4月20日、紀州藩士山葉孝之助の三男として紀伊国和歌山城下に生まれる。父親が藩の天体観測や土地測量を司る天文係であったことから、幼少の頃より機械等に触れる機会に恵まれていた。明治維新後、天分の才を生かすため時計職人を志し、明治4年(1871年)長崎に赴き高度な修理技術を習得、さらに医療器械にも精通する。同17年浜松に医療器械の修理技術者として移り住み、3年後の明治20年に修理を依頼されたことからはじめてオルガンと出会う。

当時、近代化を推し進める日本において学校教育は最重要課題であり、新しく設けられた教科の「唱歌」にはオルガンは不可欠なものであった。しかし、オルガンは舶来物であり普通学校で汎用するにはあまりに高価であった。寅楠は、輸入にたよらない国内生産こそが日本の国益であることを確信しオルガン製作に取り組む。

艱難辛苦の末、舶来品をしのぐ国産オルガンの製作に成功し、同21年山葉風琴製造所を構え東南アジアへオルガンを輸出するまでに成長。30年日本楽器製造株式会社を設立し初代社長に就任した後は、ピアノの国産化を目指し32年視察のため渡米する。35年グランドピアノを完成。同年3月緑綬褒章を受ける。37年には米国セントルイス万国博覧会でピアノとオルガンに名誉大牌賞が授与、清国皇帝より四等双龍実章が下賜された。大正5年(1916年)8月8日に65歳で死去。

現在「ヤマハ株式会社」の本社には一枚の青銅版のレリーフが保存されている。東京まで250キロメートルの道のりを脚絆にわらじ履きで自作のオルガンを担って運ぶ創業者「山葉寅楠」を描いたものである。困難に屈せず輸入品と遜色のない廉価な国産オルガンを製造し、国内の汎用だけではなく広く外国に輸出した西洋楽器製造の先駆者としての生涯は、まさに「楽器王」にふさわしい。

平成19年:偉人顕彰

由良 浅次郎(ゆら あさじろう)

明治11年(1878年) ~ 昭和39年(1964年)

写真:由良浅次郎・肖像

由良浅次郎は、明治11年(1878年)1月17日に和歌山市本町九丁目に紀州ネル染色創業者「日高屋」由良儀兵衛の五男として生まれる。同38年大阪高等工業学校色染科(現:大阪大学工学部)を卒業し、捺染加工業「由良浅染工所」を自営する。

大正3年(1914年)第一次世界大戦の勃発によりドイツからの染料の輸入が途絶え、日本の染料業界が存亡の危機に陥ったことから、染料の主原料である「アニリン」の製造を決意し、試行錯誤の末、国内ではじめての製品化に成功する。続いて当時医療界で欠乏していた石炭酸(フェノール)の製造を実現した。

これらを基礎に大正6年2月由良染料株式会社を設立し、同年12月には化学工業博覧会のコールタール染料の部で「金賞牌」を受賞。日本の化学工業界を主導する企業として広く認知され、和歌山の染料工業は急速な発展を遂げた。第二次世界大戦中は、爆薬の原材であるピクリン酸を国へ納入するとともに戦闘機20数機を国に献納した。

一方、現在の和歌山県立和歌山工業高等学校の前身である和歌山県立和歌山工業学校と和歌山県立西浜工業学校の整備に尽力し、多くの工業技術者を育成するとともに、女子教育を目的として現在の和歌山市立明和中学校の位置にあった和歌山県立文教高等女学校設立のための敷地及び校舎建設資金を提供する等、教育にも物心両面にわたり大きく寄与した。

昭和27年(1952年)由良精工株式会社を設立し、30年には商号を本州化学工業株式会社に変更した。同36年多年産業界に尽力した功績により藍綬褒章を授与される。昭和39年3月14日86歳にて死去。同年4月従五位勲四等瑞宝章を受章する。

平成19年:偉人・先人顕彰

髙橋 克己(たかはし かつみ)

明治25年(1892年) ~ 大正14年(1925年)

写真:髙橋克己・肖像

髙橋克己は、明治25年(1892年)3月9日、海部郡木本村(現:和歌山市木ノ本)に生まれる。大正3年(1914年)東京帝国大学農科大学農芸化学科に入学。同6年同大学院に進み、鈴木梅太郎教授のもと油脂成分の研究に取り組む。卒業後、財団法人理化学研究所でさらに研究を進め、世界ではじめてビタミンAをタラの肝油から分離抽出することに成功した。

当時、動物の成長を促すビタミンAがバターや肝油に大量に含まれていることは知られていたが、分離抽出の方法が見つかっていなかったため、大正11年の日本化学会での発表は学界の賞賛を浴びた。さらに、ビタミンAの性質や生理作用についても研究を重ね、多くの病気(特に夜盲症や肺結核等)の治療に効果があることを発見し、「理研ビタミン」の名称で栄養剤として商品化した。この「理研ビタミン」は現在では想像できないほど栄養状態の悪かった当時の日本人にとって大きな福音となった。また、日本はもとより欧米各国にわたる「理研ビタミン」の特許権は、理化学研究所にも大きな収益をもたらした。

大正13年ビタミンAに関する業績により鈴木梅太郎とともに帝国学士院賞が授与され、賞金は彼の意志により母校である和歌山中学校(現:和歌山県立桐蔭高等学校)に全額寄附された。同校ではこれを基金として「髙橋賞」を設け、大正15年から昭和20年(1945年)に至る間、理化学の成績優秀な生徒に授与された。大正14年農学博士の学位が授与されるが、8日後の2月8日、病のため死去。32歳であった。

昭和44年、髙橋克己博士顕彰会により和歌山市岡公園内に頌徳碑が、翌年生家門前に生誕地碑が建立されている。

現在、生家跡地には生誕地碑と髙橋克己博士像が建てられている。

平成19年:偉人・先人顕彰

ヘンリー杉本(へんりー すぎもと)

明治33年(1900年) ~ 平成2年(1990年)

写真:ヘンリー杉本・肖像

ヘンリー杉本(日本名、杉本謙)は、明治33年(1900年)3月12日、海草郡湊村(現:和歌山市湊)に生まれる。和歌山中学校(現:和歌山県立桐蔭高等学校)修業後、19歳で両親が住む米国に渡り農業に従事するが、画家を志してカリフォルニア州オークランド芸術大学を卒業し同州美術学校油絵科を修了。1929年パリに留学し、新人の登竜門であるサロン・ドートンヌに入選する。1932年帰米し、サンフランシスコ世界博覧会美術展で金賞を受賞する等めざましい活躍を繰り広げた。

しかし、1941年の日米開戦により日系人強制収容が始まり、杉本もまたカリフォルニア州フレズノ集合センターからアーカンソー州ジェローム収容所を経て同州ロワー収容所に送られた。収容所時代、密かに持ち込んだ絵筆の穂先3本と数個の絵の具によりシーツをカンバスにして日々の生活を描いた一連の絵画は、戦後アメリカで、日系人強制収容所の歴史的記録として注目を浴びた。

昭和39年(1964年)二科会会員に推挙され高い評価を受けていた杉本ではあるが、ようやくこれらの絵画が祖国日本で公開されたのは、戦後35年経た昭和55年のことであった。同56年に勲六等単光旭日章、57年に和歌山市文化賞を受賞する。1990年ニューヨークにて90歳で死去。

優れた画家であり、物語性の強い絵を描く稀有な才能を併せ持った杉本が制作した入魂の収容所絵画は、米国スミソニアン博物館や東京国立近代美術館に永久保存されている。

そして、こよなく故郷を愛した彼の意志により和歌山市には大壁画(2×8メートル)と36点の絵画、18点のスケッチが寄贈された。昭和52年以来市庁舎玄関ロビー正面を飾る大壁画は、まさに「故郷への錦」となって訪れるひとを静かに見守っている。

平成19年:偉人・先人顕彰

石桁 眞禮生(いしけた まれお)

大正4年(1915年) ~ 平成8年(1996年)

写真:石桁眞禮生・肖像

石桁眞禮生は、大正4年(1915年)11月26日、和歌山市に石桁雅五郎氏の五男として生まれる。和歌山師範付属小学校の頃より兄姉とともにピアノに親しむ。同師範学校に進んだ頃には作曲家への志を抱き、東京音楽学校出身で後に同校教授となる下総皖一(1898~1962年)に師事する。卒業後上京して東京音楽学校(現:東京芸術大学)へ進学する。昭和13年(1938年)同校を卒業した後、福井師範学校で教鞭を執りながら作曲に励み、18年日本国内で権威と伝統のある音楽コンクールの一つであり音楽界の登竜門である「第12回日本音楽コンクール」に「小交響曲」が入選する。

終戦後再び上京し、昭和21年より母校の教壇に立つかたわら、22年作曲グループ「新声会」に属して團伊玖磨、中田喜直らとともに活発な創作活動を開始した。同27年NHK管弦楽曲懸賞に「管弦楽のための組曲」が第1位入賞する。

昭和29年二期会の委嘱によるオペレッタ「河童譚」や俳優座の柿落とし公演のための「女の平和」等の劇音楽作品を書いて以降、活動の中心は舞台作品へと移行し、31年には三島由紀夫の近代能楽集によるオペラ「卒塔婆小町」等の歌劇や三好達治の散文詩による歌曲「鴉」により劇的声楽曲としての独自の歌曲の世界を確立していった。また邦楽器作品に関しても、昭和26年の「箏のための協奏三章」、45年の箏・鼓・尺八による「無依の咏」等先駆的な作曲を行った。

昭和43年から58年の間東京芸術大学音楽学部教授を、同49年から53年には同大学音楽学部長を務め、音楽教育界にも指導的な役割を果たす。昭和49年和歌山県文化賞受賞、58年紫綬褒章、63年勲二等瑞宝章受章。平成2年(1990年)毎日芸術賞受賞。

平成8年8月22日80歳にて死去。

平成19年:偉人・先人顕彰

川合 小梅(かわい こうめ)

文化元年(1804年) ~ 明治22年(1889年)

イラスト:川合小梅・肖像

川合小梅は、文化元年(1804年)12月23日、和歌山城下で紀州藩士川合鼎と妻辰子との間に生まれる。鼎は紀州藩の藩校学習館の助教であったが、京都に遊学中の文化5年に31歳の若さで病死したため、祖父で紀州藩儒者であった川合春川に儒学を学び、本居大平の弟子であった母辰子に和歌を教わって育てられた。

祖父春川は梅本修(号梅所)を養子に迎え、文政2年(1819年)2月に16歳の小梅と結婚させた。梅所は豹蔵と称し、儒者で学習館の講官を勤めたが、安政4年(1857年)12月に学習館の督学(校長)を命ぜられた。

文政8年の旧和歌山市街図の和歌山城北のヘッツイヤ町に「川合豹蔵」という屋敷地があり、安政2年の和歌山城下町絵図にも西宇治の武家屋敷地に同名の屋敷地がある。そこは、ともに鷺森御坊の北側で、現在の和歌山市西釘貫丁2丁目にあたる。川合家は少なくとも文政8年以降、そこに屋敷地を拝領していたと考えられる。

小梅は、紀州藩のお抱え絵師野際白雪に師事し、花鳥画や人物画など文人画を多く残している。これは主婦の趣味にとどまるものではなく、画人と評するにたりる業績である。また小梅は、江戸時代後期から明治時代までの長期にわたり日記をつけ続けたようで、独特の天気記号・日付ではじまり、日常生活で体験したことや見聞したことを記録している。これは、「小梅日記」として世に知られ、風俗、習慣だけでなく、幕末から明治維新にかけての激動期の事件や世相が細かく記録されており、史料的に高く評価されている。さらに、明治4年(1871年)に夫梅所を見送ると、川合家の事実上の当主として、家計を切り盛りし、子雄輔を立派な教師に育て上げた。

その後小梅は、明治22年11月2日、86歳で亡くなり、和歌山市新堀東にある日蓮宗妙宣寺の川合家墓所に葬られた。

平成23年:偉人・先人顕彰

山田 猪三郎(やまだ いさぶろう)

文久3年(1863年) ~ 大正2年(1913年)

写真:山田猪三郎・肖像

山田猪三郎は、文久3年(1863年)12月1日に紀州藩士の子として和歌山城下の七軒丁(現:和歌山市堀止西1丁目)で生まれる。何事にも研究熱心に取り組み発明心が旺盛で、川の流れを使って水の浮力や抵抗を研究し、これを空気中の風に応用したという。

明治19年(1886年)イギリスの貨客船ノルマントン号が串本の大島沖で遭難した事件を機に、猪三郎は人命を救う救助具製作の研究に取りかかり、21年大阪に出て外国人からゴムの製法技術を教わると、ゴム製浮輪の製作を始め防波救命具の特許を得た。その後同25年に上京、気球の研究にも熱心に取り組み、33年には係留気球を考案し「山田式凧式気球」と名づけた。日露戦争では日本軍がこれを採用し、旅順攻略の際、偵察用として使われている。

明治40年代になると、猪三郎は飛行船を製作し次々と改良を加え、より性能のよい飛行船を完成させていった。全長30メートル以上もあるような飛行船にエンジンを積み、空を飛行したのである。特に、明治44年9月17日に大崎(現:品川区)から飛び立った3号船は、東京上空を巡航し、その飛行距離は約20キロメートルに及んだ。これによって、自由飛行できる飛行船は実用化されることになった。これらの飛行船は山田式飛行船と呼ばれている。

猪三郎の発明は日本の航空界に大きな影響を及ぼした。今日あるその盛況は、猪三郎の寄与するところが大きいとして、明治42年勲六等単光旭日章を下賜されている。その後、猪三郎は大正2年(1913年)4月8日、満49歳で死去。昭和4年(1929年)には和歌山市内の新和歌浦の章魚頭姿山中腹に顕彰碑が建てられた。

平成23年:偉人・先人顕彰

杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん)

明治5年(1872年) ~ 昭和20年(1945年)

写真:杉村楚人冠・肖像

杉村楚人冠(本名、廣太郎)は、明治5年7月25日(1872年8月28日)、現在の和歌山市谷町で誕生。父は旧紀州藩士の杉村庄次郎で、母は紀州藩奥医師木梨家の出である。父を早く亡くし、小人町南ノ丁の母の実家で育てられた。雄小学校(現:和歌山市立雄湊小学校)から自修学校を経て和歌山中学校(現:和歌山県立桐蔭高等学校)に入学するが、校長と衝突して中退。上京して英吉利法律学校(現:中央大学)で学んだ後、国民英学会を卒業する。

帰郷して、明治25年『和歌山新報』の主筆兼編集長となる。翌年新報社を辞め、再上京してキリスト教ユニテリアン派の自由神学校(後、先進学院)に入学。他方、明治27年同郷の古河老川らと「経緯会」を設立、同32年には高島米峰らと「仏教清徒同志会」を結成し機関誌『新仏教』を創刊するなど、仏教界の革新を目指した。また、社会問題に関心を示して社会主義研究会に参加、『反省雑誌』(『中央公論』の前身)等の雑誌に執筆し、編集にも従事している。

先進学院を卒業後、一時京都の西本願寺文学寮等で教師をしたのち、明治32年堪能な英語を生かし駐日アメリカ公使館に勤務する。公使館ではシルクハットを用いるのが慣例で、間違われないよう帽子の箱に「楚人冠」と書いたのが、杉村の号の由来である。これは『史記』の項羽の逸話で「楚人は沐猴(さる)にして冠するのみ」=「粗野の人がうわべだけ飾る」という意味。

明治36年東京朝日新聞社に入社し、鋭いルポや伏見宮渡英の随行記が好評を博し、42年には中学の先輩南方熊楠が取り組んだ神社合祀反対運動を中央紙として初めて取り上げて、熊楠の活動を広く知らせた。

明治44年、ロンドンタイムスで知った調査部を日本の新聞業界では初めて創設し、縮刷版の発行、『アサヒグラフ』の創刊に取り組み、『最近新聞紙学』『新聞の話』などの先駆的な著作を執筆した。

昭和12年(1937年)には『楚人冠全集』が生前に刊行され、日本のジャーナリズム発展向上に大きな足跡を残し、昭和20年10月3日、満73 歳で死去するまで42年間新聞記者として生涯を全うした。

平成23年:偉人・先人顕彰

下村 観山(しもむら かんざん)

明治6年(1873年) ~ 昭和5年(1930年)

写真:下村観山・肖像

下村観山は、明治6年(1873年)4月10日に紀州藩士下村豊次郎の三男として和歌山市中ノ店南ノ丁30番地で生まれる。観山は号で、本名を晴三郎といった。明治14年に東京に出て、狩野芳崖に師事し日本画を学ぶ。同22年に開校した東京美術学校(現:東京藝術大学)に一期生として入学し、岡倉天心の下でさらなる研鑽に努めた。

明治27年の卒業に伴い、同校の助教授として迎えられる。しかし、同31年に岡倉天心が同校を去るにあたって行動を共にし、岡倉が設立した日本美術院の正員となる。観山は美術院において、意欲的に創作活動を行い日本画壇に新風を吹き込んだが、大正2年(1913年)の岡倉の死によって事実上美術院の活動は停止した。しかし観山は、横山大観らとともに早くも大正3年に美術院を再興し、翌4年には再興日本美術院展を開催した。以後、美術院に重きをおいて、日本画壇を牽引するとともに後進日本画家の育成に努め、昭和5年(1930年)5月10日に57歳の生涯を終えた。

観山の作品には、平家物語に題材を取った「大原御幸」(明治41年、東京国立近代美術館)など、歴史画が多い。また、狩野芳崖に師事して日本画壇に踏み入った観山ではあったが、狩野派の流儀に拘泥することなく、長谷川等伯・尾形光琳らの古典絵画の中からその技法を学び、時には洋画の技法さえも取り入れることがあった。その意味で観山は、前近代の流派を超越しており、近代日本画壇の扉を開けた日本画家の1人であると評しても過言ではないだろう。

平成23年:偉人・先人顕彰

野村 吉三郎(のむら きちさぶろう)

明治10年(1877年) ~ 昭和39年(1964年)

写真:野村吉三郎・肖像

野村吉三郎は、明治10年(1877年)12月16日、現在の和歌山市西釘貫丁に旧紀州藩士増田喜三郎の三男として生まれる。始成小学校(現:和歌山市立本町小学校)から和歌山中学校(現:和歌山県立桐蔭高等学校)に進むが、中途で海軍兵学校に首席で入学する。同29年叔母が嫁いだ野村家の養子となった。

明治31年海軍兵学校を卒業、各戦艦の航海長等を歴任し、34年英国で建造された戦艦三笠を回航するため派遣される。その際、同郷の有馬良橘中佐(後、海軍大将)の指導を受け、このとき得た知見が野村を海軍第一の国際派とならしめた。明治41年オーストリア駐在武官として赴任したのを手始めにドイツ、アメリカに駐在し、大正8年(1919年)のパリ講和会議に随員として、さらに同10年のワシントン軍縮会議にも全権団の随員として加わり、軍縮派として条約締結に努め海外の政治家とも親交を深めた。昭和7年(1932年)第三艦隊司令長官に就任、同年勃発した上海事変に出征し事態収拾に尽力した。翌年、和歌山市出身では二人目の海軍大将に昇進した。

昭和12年予備役となり、学習院院長に招かれる。14年に阿部信行内閣が成立し、同年9月、第二次世界大戦が勃発すると、国際的視野を持つ野村は外務大臣に任命され、翌年1月まで務めた。同年11月、悪化した日米関係改善のため特命全権大使としてアメリカに赴任する。旧知の間柄であったルーズベルト大統領やハル国務長官と戦争回避のための交渉を続けたが、昭和16年12月真珠湾攻撃により太平洋戦争に突入し、彼の努力は報われないまま、翌年最後の交換船で帰国した。その際に購入したウェブスターの辞典を和歌山中学に贈呈し、敵国語と排斥されている風潮の中で、英語の勉強に励むよう講演したという。

戦後、公職追放が解除されると、昭和28年松下幸之助の招きにより日本ビクター株式会社の社長に就任する。翌年からは参議院議員として活躍。任期途中の昭和39年5月8日、86歳で死去した。

平成23年:偉人・先人顕彰

西本 幸雄(にしもと ゆきお)

大正9年(1920年) ~ 平成23年(2011年)

写真:西本幸雄・肖像

西本幸雄は、大正9年(1920年)4月25日、和歌山県海草郡宮村吉田(現:和歌山市吉田)で銀行員の父・義彦、母・セキノの3男2女の末っ子として生まれる。

昭和8年(1933年)、和歌山中学校(現:和歌山県立桐蔭高等学校)に進学し、3年生の4月にラグビー部に入部。4年生の8月に野球部から勧誘を受け、転部した。左投げながら二塁手を任され、一塁手、投手も務めた。5年生となった同12年夏には和歌山大会決勝で嶋清一投手を擁する海草中学校(現:和歌山県立向陽高等学校)に敗れ、甲子園大会に出場することはできなかった。

昭和13年に立教大学に入学。17年には主将に推され、事実上監督として指揮を執った。東京六大学野球で活躍し、明治神宮大会では全国優勝を果たす。同18年に同大学を繰り上げ卒業となり、11月には和歌山の歩兵第61連隊に入隊。中国へわたり、終戦を迎えた。昭和21年6月に復員。社会人野球チームの八幡製鉄、全京都を経て、同23年に別府星野組に移った。監督兼一塁手・3番打者として昭和24年の都市対抗野球大会で優勝を果たした。

同年、新設のプロ球団・毎日オリオンズに入団。創設1年目、2リーグ分立初年度の昭和25年、パ・リーグと日本シリーズの初代王者に輝いた。昭和27年に主将、29年には兼任コーチを務め、昭和30年限りで現役を引退。昭和31年から32年まで二軍監督を務め、同34年に大毎となっていたチームの一軍コーチ、35年には監督に就任する。1年目にしてリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは敗れた。

昭和37年、阪急ブレーブスのコーチとして招かれ、翌年に監督就任。昭和42年には球団創設32年目で初優勝に導いた。昭和38年から48年まで11年間で5度のリーグ優勝を果たし、常勝球団へと育て上げた。昭和49年から近鉄バファローズの監督となり、昭和54年には球団創設29年目で初のリーグ優勝を果たし、翌55年も制して連覇 。昭和56年限りで勇退した。

その後、関西テレビの解説者、スポーツニッポン新聞の評論家として活躍。「球界のご意見番」と呼ばれた。昭和63年には野球殿堂入りを果たした。

20年間の監督生活で通算1384勝は歴代6位。リーグ優勝8回を果たしながら、日本シリーズでは一度も日本一になれず、「悲運の名将」といわれた。

平成23年:偉人・先人顕彰

津本 陽(つもと よう)

昭和4年(1929年)~平成30年(2018年)

津本 陽 

津本陽(本名寅吉)は、昭和4年(1929年)3月23日、和歌山市和歌浦に生まれる。旧制和歌山中学校、旧制大阪専門学校(現:近畿大学)を経て東北大学法学部を卒業後、大阪の化学肥料メーカーに13年間勤めた。その後不動産会社を経営する傍ら同人雑誌『VIKING』に企業小説や私小説を発表し、昭和41年7月『丘の家』が第56回直木賞候補になる。

同53年には故郷和歌山を舞台に古式捕鯨を行う人々の物語を描いた『深重の海』で第79回直木賞を受賞する。同57年に発表した『明治撃剣会』は剣豪小説ブームの火付け役となる作品で、剣道三段、抜刀道五段の有段を活かし、剣技の精密かつ迫力のある描写で剣豪小説に新境地を開いた。

また、戦国時代を舞台にした歴史小説を意欲的に執筆し、織田信長の一生を描いた『下天は夢か』はベストセラーとなり、平成7年には『夢のまた夢』で第29回吉川英治文学賞を受賞する。

長年の文学分野での業績を評価され、平成9年に紫綬褒章、15年に旭日小綬章を受章する。歴史小説、剣豪小説に新境地を開き、さらに戦記文学へと幅を広げる旺盛な作家活動が評価され、平成17年に第53回菊池寛賞を受賞する。

作品には、『南海の龍』『大わらんじの男』『雑賀六字の城』など紀州とゆかりのある徳川吉宗や雑賀一族を題材にしたものをはじめ、『不況もまた良し』『巨人伝』など郷土和歌山の偉人・先人である松下幸之助や南方熊楠を題材とした小説も見受けられる。

平成7年から平成18年まで直木賞の選考委員を務めており、日本の歴史小説作家、時代小説作家、編集者の親睦団体として平成23年に発足した歴史時代作家クラブでは、名誉会長兼顧問を務め、歴史・時代小説の隆盛と育成に尽力した。

80歳を過ぎてなお精力的に執筆活動をつづけ、最後の単行本となった『叛骨ー陸奥宗光の生涯ー』では、本市の偉人・先人である陸奥宗光の波乱万丈の人生と不屈の境涯を描いた。

平成30年5月26日、89歳で逝去した。

                                      令和元年:偉人・先人顕彰

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